インサイダー取引で全てが無に…「インサイーダ」

 真面目に相づちを打ちながらも、私の頭の中は、目の前のスライドに記された数値で満たされていた。部内会議で知った、業績予想の上方修正。主力製品の売上が見通しをはるかに上回っていることが理由で、説明する部長の声もどこか弾んでいる。
「皆さんの日頃の努力の賜物です。なお、公表は来週を予定しています」
 話を聞きながら、ふと先日の失敗を思い返して心が淀む。小銭稼ぎになればとネットの情報を頼りに、ろくな知識もなく始めた株式投資は、小銭どころか借金を残した。元々決して裕福な暮らしではない中、節制して生活を支えてくれている妻のことを思うと、借金のことなんて、言えるわけがない。上方修正は良い知らせだが、給与やボーナスにどのくらい影響があるだろうか。とにかく早く、借金を返さなくてはいけないのに…。ふと、二度と開かないと決めた投資アプリを開く。今の私は、ネットの曖昧な情報ではなく、確実に株価に影響を与える情報を持っていることに思い当たってしまったのだ。

落ちた甘い罠

 決意してからはあっさりしていた。なんでも少しの操作でできてしまうのが、スマホの便利なところだ。
「どうしたの? なんだか嬉しそうね」夕飯の支度をしていた妻が顔をのぞき込んだので、思わずスマホの画面を隠すように胸に押し当てた。さらに不思議そうな顔をした妻に「隠し事?」と疑うような目をされると、白状せざるを得ない。
「実は、まだ公表前だけど、会社の業績が上方修正されるんだ。えーと、だから、冬のボーナスが期待できるなあって…」株のことは伏せつつも事実を告げると、納得してくれたようだ。ほっと胸をなで下ろし、私はまた画面に目を落とす。「業績上がるんだあ、すごいね」妻の嬉しそうな声と、炊飯器の終了ブザーが重なった。

インサイーダ、あらわる

 公表後、予想通り株価は上昇した。そんなある日の朝、家で鏡に映る自分の身体がすっかり変わってしまっていることに気づく。まじまじと観察すると、ぬるりとした皮膚に鋭い棘、さらに三つの目と、不気味な姿。私はこんぷらモンスター・インサイーダになっていた。しかし、不思議と冷静にその状況を受け止めた。借金を返すどころか、贅沢な生活が望めるような莫大な利益。それを思えば、姿など、どうだっていい。指で利益を計算しては、ほくそ笑んだ。そうだ、妻にプレゼントを買おう。最近、自分のための買い物なんてしていないはずだ。何をあげたら喜ぶだろうか…考えを巡らせながらリビングに足を踏み入れた私は、目を疑った。

二匹目のインサイーダ

 そこにいたのはもう一匹のインサイーダだった。なぜ、と狼狽しつつも、私はあの日の食卓を鮮明に思い出し、それが何を意味するのかが、わかってしまった。三つのぎょろぎょろした目玉が一斉に私に向く…このインサイーダは、妻に違いなかった。
 私はただ、借金を返したくて。そもそも株に手を出したのも、もっとお金があれば妻を幸せにできると思って…でも、まさかこんなことに…「すまん、許してくれ」床に突っ伏し、嗚咽をこらえながら叫ぶ。それを不思議そうにのぞき込むインサイーダに、妻の面影はなかった。

喪失と回想

 私たちのインサイダー取引はその後まもなくして、調査によって発覚した。利益を得るどころか、株の売却代金の没収や課徴金まで。会社は解雇、妻との関係も悪化…階段から転げ落ちるように、全てを失った。インサイダー取引が「バレない」と思っていたことが間違いだった。いや、そもそも、知識なく株を始めたのが間違いだった…数え切れないほど後悔を重ねた。しかしいくら後悔しても、あの慎ましくも幸せだった日々は、もう決して戻ることはない。

(証言者 元・商社の営業部A)



※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。