裏切りの持ち出し、それは絶望への道「モチダッシュ」

ある日の昼休憩明けの一本の電話で、社内は騒然とした。大手の損害保険会社の法務部門からの電話で、その電話に出た部下は、話の途中で受話器を手で押さえると「うちの元社員が、顧客リストを転職先に持ち込んだようです」と震える声で私に告げたのである。
得たこと
時は半年前に遡る。
話によれば、清瀬は在職中に顧客リストのデータを持ち出し、転職先の営業活動でそれを利用していたという。
清瀬は転職後すぐに新規開拓を任された。アポ取りの成功率がとても高く、優秀な新人が入ったと話題になっていたようだ。ただ、直属の上司はその様子を不審に思っていて、清瀬がアポを取ったお客さまから、「連絡先をどうして知っているのか」という問い合わせがあったことがきっかけで、社内調査を始めたそうだ。
調査で、アポ取りの詳細について聞かれた清瀬は、最初はごまかそうとした。しかし、パソコン内のデータを確認させてもらうと話したところ、観念して白状したとのことだ。電話の後はすぐに警察に相談し、相手の保険会社とともに捜査に全面的に協力することになった。
ずさんな情報管理
警察からも指摘を受けたが、清瀬が秘密情報の顧客リストを簡単に盗み出せたこと、さらに、外部から指摘されるまで持ち出しに気づかなかったことは、当社の情報管理のずさんさを表していた。お客さま一人ひとりに連絡し、謝罪とともに、個人情報の徹底管理を約束した。また、連絡をしてくれた保険会社にも、あらためてお礼の電話をしたところ、警察の捜査があったが、すぐに会社には責任がないことが証明されたと話していた。
逮捕
捜査が進み、清瀬は保険会社を懲戒解雇となり、不正競争防止法違反の容疑で逮捕された。持ち出された顧客リストが営業秘密としての要件を備えていたことの証明のために、追加資料の提出が求められており、収束までにはまだ時間が掛かりそうだ。
数日後、資料提出のため足を運んだ警察署で、「モチダッシュにご用心」というやたらポップな見た目の張り紙に気づいた。近くにいた職員に聞いたところ、これはこんぷらモンスターで、営業秘密を「ダッシュ」で「持ち出す」から、「モチダッシュ」と名付けられたらしい。そんなダジャレのような名前と、コミカルなイラスト。こんな状況でなければ笑えたのかもしれない。しかし、少し前に署内の通路ですれ違った清瀬の、絶望した表情を見た後では、笑えなかった。
得たこととは
警察署からの帰り道で、清瀬が以前口にした「この会社で得たことを活かして、がんばります」という言葉をふと思い出した。得たことって、仕事で身に付けた知識やノウハウのことではなく、顧客リストのことだったのだろうか。考えれば考えるほど、心がざわついた。清瀬は、笑顔で明るく、しっかりと仕事をこなしていた。こんな卑怯なことをしなくたって、きっと転職先でうまくやれたはずなのに、どうして。今はもう会うことのできない清瀬に、頭の中で問いかけてしまう。
存在理由
モチダッシュはなぜ存在するのか。企業の情報管理の問題、あるいは行為者の悪意、そして恐ろしいのは、今回はそうではなかったが、モチダッシュをありがたく迎えてしまう企業が存在することだ。すべての企業が営業秘密を厳重に管理し、持ち込まれた営業秘密の不正利用を拒むような姿勢であれば……モチダッシュなんて、存在しないのかもしれない。
(証言者 不動産会社 営業部課長A)
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。