走れツウキンヒヒン その行先は真っ暗「ツウキンヒヒン」
私は給与明細を見て溜息をついた。総支給額を見れば悪い数字ではないが、所得税、住民税、健康保険、厚生年金など、天引きされる金額の大きさといったら…。仕方がないことだが、少しぐらいどうにかならないものかと思う。ふと、通勤費が目に入る。昨年引っ越して、家から会社が遠くなり、さらにはバスと電車を利用することになったので、なかなかの金額だ。引っ越したのは、人生で最も大きな買い物をしたからだ。三十五年ローンのマイホームである。その月々の返済が、私の溜息を大きくさせる要因でもあったし、増えた通勤費のうちいくらかでも手元に残るならと考えたのが、全ての始まりだった。
バスから自転車へ
閑静な住宅街にある我が家の難点は、最寄りの駅までが遠いことだ。駅までは、近くの停留所からバスで三十分もかかる。ある日、バスを颯爽と追い抜いていく自転車を見て、私はひらめいた。
自転車なら交通状況による遅延はない。そして、運動にもなり健康的だ。学生時代は野球部だったし、体力には自信がある。雨の日は憂鬱だが、ネットでおしゃれなレインウェアを買えばいい。そして最も重要なのは、会社には変わらずバス通勤と伝えることだった。次の月、私は給与明細を見て、ほくそ笑んだ。バスの定期代は一カ月で約一万円。そこまで大した額ではないが、積み重なれば大きい。
自転車から馬へ
自転車通勤を始めて少し経ったある日、やけに周りの視線を感じた。
「なんだ?」と思う間に、さらに足元からは「パカラン、パカラン」と妙な音。加えて、身体が自転車と一体化したような感覚もある。直接地面を蹴って、走っているような…。ふと、飲食店の窓ガラスに映った自分の姿を見て、驚いた。私は草原を駆ける馬のように…というより、本当に馬のような姿になっていた。何より不思議なのは、爽快感で頭がいっぱいで、姿などどうでもいいかと思ったことだ。とにかく走っていたい。地の果てまでも。そう感じていた。ただ、駅に到着すると、その感覚は途絶え、身体も人間に戻るのだった。
目が覚めたら
それからも、私は馬になって走った。走っているときの気持ち良さは、これまで味わったことがないほど格別だった。とはいえ姿が変わるのは、会社の行き帰りに自転車に乗るときだけだった。休日も馬になれたら、楽しいのに。そう願っても、私が馬になれるのは、通勤費を浮かすときのみに限られていた。
その日も、私はいつものように馬の姿になって、駆けていた。しかし、突然響いた大きなブレーキ音と衝突音、そして身体への衝撃。何が起こったのかもわからず、目が覚めたら病室だった。思わず周囲と自身を確かめるが、どうやら人間の病院で、私の身体も人間に戻っていた。
馬の正体
「車にはねられたんだよ」
病室に来た上司は、心配と疑念を併せ持ったような複雑な表情をしていた。
衝突のショックにより気を失い、命に別状はなかったが左足を骨折。そして、事故の事情聴取から会社にも連絡が行き、私の自転車通勤が発覚した。また、馬のような姿は、「ツウキンヒヒン」という、お金目当てで通勤費をごまかす、こんぷらモンスターに変身していたからということを知った。
メロスと私
私は不正に受給していた通勤費を返済することになった。お金が欲しくて悪だくみ。バレて返済、さらには足を骨折。なんてバカなことをしたのだろうと、思い詰めた。ふと、有名な小説で、友人のために走り、信頼を得た男がいたことを思い出した。一方で私は、自分のために走り、お金を得ようとして得られず、さらには信頼までなくした。そんなの、あまりにも恥ずかしいじゃないか。ツウキンヒヒンは、ひどく赤面した。
(証言者 物流大手 生産管理部A)
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。