現れたのは、挨拶をするあいつ「アイサッツ」

 感じ悪いよね。挨拶しても、返してくれないし…。
 聞こえないフリをして、同僚の間をすり抜け、自席に座る。異動してきてから数か月、俺は完全にこの部署で浮いていた。

苛立ち

 新卒でこの会社に入って十数年、初めての部署異動だった。これまでは個人で黙々とこなす業務が多かったが、異動先ではチームで進める業務が多く、どうも慣れない。あるとき、「挨拶くらいしましょうよ」と言われたことで腹が立ち、思わず、「与えられた仕事はできていますよね?だったら、文句ないでしょう」と返した。その後、同僚たちからの視線は冷たい。たかが挨拶で、と思いつつ、そのたかが挨拶がうまくできない自分にも苛立っていた。

挨拶

 ある日、深夜に目が覚めた。普段なら、一度寝れば朝まで起きない性質のため不思議に思っていると、違和感に気づいた。一人暮らしのこの部屋に、自分以外の気配がする。だんだんと目が暗闇に慣れて、室内をぼんやりと見回すと、ぎょっとした。笑っている。得体の知れない何かが。こちらを見て。そして、目が合うと、そいつは「おはようございます」と、はっきりと口にした。

見覚え

 鋭い歯に尖った爪を持ったそいつは、こちらを見て笑顔で、挨拶をする。俺が黙っていると、さらに挨拶を重ねる。そして、だんだんとこちらに近づいてくる。満面の笑顔と、触れられるだけで大怪我をしそうな歯と爪が、何とも不気味だ。しかし、さらに不気味なのは、心のどこかで、俺はこいつを知っているような気がしていたことだった。異常な状況と謎の既視感に混乱しているうちに、俺は気を失っていた。

口から出た

 再び目を覚ますと、今度こそ朝だった。夢か、と思う前に、あいつ、深夜に「おはようございます」って言ってたな…と妙に冷静に考えていた。支度にも力が入らず、気が付くと、遅刻しそうな時刻だ。慌てて家を出る。
 異変が起きたのは、会社に着いたときだった。オフィスのドアを開けると、「おはようございます」と、自分の口から声が出た。同僚たちは、少し驚きつつも、挨拶を返す。何よりも驚いていたのは、俺自身だった。

無意識と意識

 あいつが現れた日から、無意識のうちに、挨拶が口から出ることが続いた。俺は挨拶を無意識に行っているのか、意識して行っているのか、そのうちわからなくなっていた。さらには挨拶をする度、記憶のどこかが呼び起こされるような感覚があった。思い出した。部屋に現れたあいつは、昔飼っていた犬のアイに少し似ているのだ。

あの頃

 学生時代、実家で飼っていたアイは、毎朝、家を出るときに俺を元気に送り出してくれた。俺の「行ってくるよ!」の声に「ワン!」と大きく答える。「いってらっしゃい」と言われているようだった。そして、部活でどんなに遅く帰ってきても、玄関では「おかえり!」と言うように、「ワオーン」と鳴きながら飛び付いてきた。そんなアイは、いつだって俺を癒してくれた。
「あの頃は毎日、挨拶していたじゃないか」
 挨拶をする度に、そう、アイに言われているような気がした。

それから

 「お疲れさまでした!」
 職場全体に聞こえるように言って、帰路につく。挨拶をするようになってから、同僚や上司から話しかけられることが増えた。質問や相談もしやすくなったことで、仕事もうまく進み、最近では、関わったプロジェクトがチームで社内表彰を受けた。
 今となれば、なぜあんなにも挨拶を躊躇していたのか、わからない。しかし、そう思うのは今だからで、あの頃の俺は本当に挨拶ができず、軽視していた。あいつが、アイが、俺を救ってくれた。元気に挨拶をする度に、アイのことを思い出す。そして自然と笑顔になれるのだ。
(証言者 ITサービス業 マーケティング部A)



※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。